水谷三公『丸山真男』を読んで

 水谷三公さんによる『丸山真男−ある時代の肖像』を一気に読みました。簡単に自分のためのメモを書いてみます。ちなみに、水谷さんの著書を読むのは初めて。

 著者は大学を卒業するときに丸山真男さんから助手への誘いを受けたが行政学者の辻清明さんの助手になったとのこと。この本は、著者が長年心に抱いてきた丸山さんへの懐疑・疑問を、愛情を込めて丁寧にまとめたものと評価していいでしょう。わたしとしてはまず、著者が「はしがき」で提示している「丸山の目指す『社会』について」の感想に惹かれました。著者は、人が自分の生きている世の中を指す用語として「世間」と「社会」を区別しています。

人はときに「世間」と言い、時に「社会」と呼ぶ。大雑把な言い方になるが、丸山は、私から見ると「世間」の人ではなく、「社会」の人であり、その代表的な一人である。遅れゆがんだ日本の「世間」を批判・克服し、近代的「社会」の実現を目指した人である。(8ページ)

 そして著者は広津和郎の回想録『年月のあしおと』を紹介しながら日本の「世間」のあり方を描きます。世間は律儀でやさしい顔をしているばかりではない。人は世間体を恥じて夜逃げや心中に至ることもある。それは世間が制裁にも支えられながら生きているからだ。しかし、生きた世間は国家の使命や自ら属する組織の利害よりも、世間の仲間への気遣いを優先させる。そして人はお互いを気遣いあい、世間の期待に忠実になろうとつとめる。著者の描く「世間」はそんな人どうしの関係です。著者によれば「社会」は「世間」を片隅に追いやった輸入用語であるとされます。

 社会は、世間体の苦しさやしがらみを雲散霧消させるはずの、つまり村八分もいじめもない、欧米近代にあるという自由な個人の自発的な強調と連帯を約束するのである。しかし、それはおおかたうそである。うそだから実現しないし、そんなふりを無理に通してみても、定着しない。日本に定着しないのは、市民意識や個人の尊厳の観念が稀薄で、いまだに未成熟だからではない。たんに、そんなことはこの世にないからである。(12ページ)

 丸山はそんな「世間」を「外国から輸入」した知識を駆使して克服し「社会」を実現しようとしたというわけです。

 不得意な分野の比喩をあえて使えば、丸山の評論は、独・英・仏三カ国の左翼的知識人たちが文明的言語で奏でる演奏にぴったり寄り添い、共鳴する弦楽四重奏のようである。それが丸山の評論に、同時代の日本には稀な、鋭利な分析視角と華麗な魅力に富んだ文体を与える背景であった。(14〜15ページ)

 なるほど華麗であったのかもしれません。しかし、同時代にその華麗さに「幻惑」される経験をもたなかったわたしは、丸山真男さんの書いたものを読むたびに(たいした量ではないですが)「なんともいいようのない気持ち悪さ」を感じたものでした。その素は、まさにここだったのだと思います。

 著者はラスキについて詳しい立場から(『ラスキとその仲間』という著書がある)、よりによってラスキなんかを高く評価する丸山に対して懐疑的です。また、戦後国際政治、とくに朝鮮戦争の評価についての丸山さんの曖昧さを手厳しく批判しています。このくだりも非常に興味深く読みました。

 「社会主義」に対する評価は著者とは少し違っていますけれども、それはわたしが、日本の社会主義思想をソ連社会主義や西欧型社会主義とはやや区別して(日本の伝統的な思想と、急激かつ大量に輸入された外国思想とが交錯して生じた思潮として)とらえているからだと思います。この本全体に流れる著者のメッセージにはおおむね気持ちよく賛同できました。「啓蒙主義」に対する懐疑的な「気分」を(わたしなど、まだまだ「考え足らず」であるから、こんな言葉は不遜ですけれども)著者とわたしは共有しているように思います。

 丸山真男さんは1992年に、日本だけが社会主義に対して「行きすぎた幻滅」を示し、「資本主義万万歳」に走っていることに「腹が立ってしょうがない」と憤慨したそうです。これに対する著者の感想は、わたしにとって「これだ」と「思わず膝を打つ」ものでした。引用しておきます。

 しかし、この場合の怒りは、若い頃から丸山に見え隠れする「嫌日」感情と混じり合った「日本特殊性」論のヴァリエーションではないだろうか。一部で言われるほどには、欠如論や日本特殊性論が丸山に顕著だとは思わないし、いわゆる土着論にたいする丸山の批判や不満も、それ自体としては正当だと思うが、にもかかわらず、「日本的なもの」、大衆化と癒着しがちながら根強く生き延びる「土着的なもの」にたいする生理的な嫌悪が、丸山の論理に特有のゆがみを与える場合のあることまで否定するのも行き過ぎだろう。(282〜83ページ)

 このような丸山さんの性向に似たものはいまでも研究者を職業とする人によく見られます。いま我が国に存在する様々な困難に気づいたときに、自国の歴史をさかのぼってその改善方法を考えるのではなく、自分にとってお好みの外国の事例と比較して、そちらをより優れたものとし、日本もそれを見習うべきであるとする、こういう習慣がいかに蔓延していることでしょう。しかも、お好みの事例が調子が悪くなると、また別の事例を探してくる。

 もちろん、優れた事例から教訓を学び取ることは重要なことですが、そこに「日本的なもの」を低く見る価値観が潜んでいることには問題があると思います。それぞれの文化や伝統自身のなかに、学び取るべき知恵はたいていあるとわたしは思うからです。まあ、それは「なにを参照したがるか」についての「思考のくせ」の違いにすぎないのであって、丸山さんたちが西欧を参照したがる啓蒙主義者であるのに対して、わたしが自国の伝統を参照したがる伝統主義者、あるいはロマン主義者だということなのかもしれません。

 著者がずばり言うように「政治はおおむね通俗である」と思います。話はずいぶん飛びますが、いわゆる「政界再編」のときに「啓蒙」的に国民に対してある種の政治的態度を要求した「政治学者」たちがいました。それはきつい言い方をすれば「丸山真男のへたくそなもの真似」であったようにも思います(後知恵で言えることですが)。その人たちの以後の発言の迷走ぶりはまだ記憶に新しい。そんな「政治的なるもの」よりも日常的な営みとしての「世間の組み直し」(著者)の方に期待する気分がわたしにもあります。そのことをこの本を通じて再確認できたことは、わたしにとっては有益でした。わたしがのぞむ「世直し」には「世間」や「伝統」への信頼と、「より良く生きる」ことを希求する人びとの意思の両面が必要であるとあらためて思った次第。お後がよろしいようです。

【リンク】自分用のメモとして勝手にリンク付けしておきます。

■法政大学社会学部 奥研究室ウェブサイトより
本書に対する短い書評あり。
http://www.dcns.ne.jp/~t-oku/book4.html

大原社会問題研究所 『ラスキとその仲間』のオンライン書評
書評者とはかつておつき合いがありました。
思わぬところで懐かしいお名前を拝見しました。お元気でしょうか?
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/shohyo/fukuda1.html