授業のことなど

きょうは2時限から「ネットワーク社会論」の授業。
以下は授業準備のために少し読んだ本からの抜き書きと要約です。
本は、公文俊平『情報社会学序説』(NTT出版・2004年)

アメリカ大統領選挙民主党次期候補者選出において、2003年のうちは「インターネットをフルに活用して躍進につぐ躍進を見せていたディーンのキャンペーンは2004年に始まった民主党の予備選の直前になって突然『失速』し・・・それ以後もはかばかしい成績をおさめられないままに撤退してしまった」そうです(公文: 12)。

これについてディーンの顧問グループの一人であるクレー・シャーキーさんは、1)ディーン候補が生み出してしまったものは「キャンペーン(票数がものをいう世界)」ではなくて「運動(信念がものをいう世界)」だったのではないか、2)そして敗北したのはディーン陣営が「社会的ソフトウェア(電子メールやブログのような新しいコミュニケーション手段)」にもっぱら頼ったからではないかとのべているそうです。つまり、オンラインの環境だと、ある問題に対する議論のような人びとの間の相互作用はきわめて容易になるが、そうなればなるだけ、現実の世界での相互作用との距離が離れてしまうというのです。自分の言いたいことはネットでもうじゅうぶんしゃべったから、わざわざ忙しい日に投票になんかいかなくても、ってな感じでしょうか。シャーキーさんは「社会的ソフトウェア」は在来型の選挙キャンペーンの補完としての使い方が有効ではないかと言っているとか。

この発言を紹介したうえで公文さんは「社会的ソフトウェア」を積極的に利用する「アクティヴィストたちは、どちらかというと自分たちの意見に固執する傾向が強く、「代表制民主主義」にとっての大前提になっている相互の討論・説得、あるいは妥協を通じて自分の意見を変えたり、個別な意見の集約を通じて多数意見の形成に努めた上で多数決でものごとを決めたりするといった方式にはなじまないのではないかと思われる」とのべます。

このようなアクティビスト=智民(公文さんの造語だと思われます)の意識や行動様式は、既存の民主政治と相性がよくないというのです。そして公文さんは、彼らにふさわしいのは「同じような価値観や考え方の持ち主が群がる形でアクティブなグループを作り、自分たちの好みの形での行動を起こすことだろう。『智民・智業アクティビスム』とは、まさにそのようなものではないだろうか」と問いかけています。

わたしはネットなんてしょせん道具だと思っているところがあるので、公文さんのおっしゃる「智民」という層にたいした期待はしていませんが、たしかに「智民」的な人たちは選挙活動よりはもっと日常的な仲間通しのネットワーキングの方が得意なんだろうとは思いました。
「ネットワーク社会論」は6年間担当し続けてきたのですが、来週の授業をやって「卒業」です。6年間考えてきたことをネット上で簡単にまとめておきたいと思っています。

5校時は大学院の「地域政策史」の授業。
1914年(大正3)に出版された横田英夫『農業革命論』を農文協の復刻『明治大正農政経済名著集』の版で輪読。横田は後には農民組合運動の指導者となるのですが、この時点では自作農・中農の国家の担い手としての重要性を強調し、社会主義に対する強い警戒の念をのべています。その文体の激烈さにちょっとびっくり。考えてみたら「大逆事件」からまだ4年しかたっていない時期なんですね。単純にロシア革命の影響だなどと言ってしまう気はありませんが、第一次大戦の前と後では、(少なくとも表面的には)日本の社会思潮には大きな変化が見られることを再確認しました。大正3年という時期は、まだまだ明治ナショナリズムの影響がきわめて強い時期であったようです。最近このへんの時代のテキストをちゃんと読んでいなかったので、ちょっと意外な感じでした。勘を取り戻さなくては。